写真集「神人の祝う森 ~沖縄やんばる・森と水の神話~」
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■写真集「神人の祝う森 ~沖縄・やんばる 森と水の神話~」
(2020年9月刊行/300㎜×215㎜×13㎜/100ページ/税・送料込15,000円)
「太古、島々は深い森で覆われていた。樹や岩や花や動物たち、神さまや人にも、同じ時間が流れていた。」
1997年からの10年にわたり、沖縄やんばるの森にひとりテントを張って見つめ続けた、自然と人間の根源。地域の神歌や古謡も多数記載し、民俗学の視点からも自然と人間の調和していた太古の世界に迫った写真集。
【書評1】 野原みのり/自営業
軽い気持ちでページを繰ってみる。第1ページ、第2ページと開いてノックダウンされました。雨に煙る水上を疾走してくるハーリー船、迫りくる漕ぎ手の現実感。写真は一瞬をうつしとるもの、という固定観念から解き放されて、写真はその瞬間の1、2秒前、あるいはそのあとの1、2秒後までうつしとるものなんだと、深くこの写真集に引きずり込まれた。
この作者は森の中で息づいている生物たちと生を共にしている。深い森で培われた土壌で生き物が生まれ成長して花を付け実を成し、そして死して土に還っていく階梯を抱きかかえているその圧倒的な姿に、写真を繰りながら見ているものは安堵する。時に土の中に潜り、また羽をはやして撮ったかのような俯瞰図を展開して、沖縄の大地と人がこれ以上なく豊かに生を営んでいる様を物語っている。
【書評2】 小林伸幸/写真家
実は、普段より他者の写真はあまり見ない質なので、これほどじっくり、腰を据えて向き合ったのは久し振りの事です。とはいえ最初、僕にとっては引用文が難解過ぎたため、意図するところが不明瞭だったのですが…、解説とあとがきを読んで一変、一気に引き込まれてしまいました。
何度も見返し、解説と照らし合わせ、その場を想い、心情を探りました。心を飛ばし、繋がる感覚は楽しいものですね。なんとも良きひと時を過ごせました。
森の営み、人間の営み、神の存在、そして共生の在り方、それらを捉える愛に満ちた眼差しに、ちょっとしたジェラシーを覚えたりもしましたが。
ダムに沈む森を撮ることが発端であり、人の蛮行に疑問符を投げかけながらも、その実、人も含めた上での人間礼賛の書である点、非常に感銘を受けました。
【書評3】 ひろかわさえこ/絵本作家
その表紙の美しさにすっかり心を奪われて、手元に届く日を待っていました。
封を切って本を手にした時から、「これは、私の宝物」とわかりました。心が、本当に躍るようでした。
以前、飛行機の中から緑で覆われた地上を見下ろしていた時、山々や森やその下生えの草たちや、そのまた下の湿った大地が内包する限り無い数の生命のイメージが、急に押し寄せて来て身震いするような感動を味わった事があります。この写真集は、そのイメージに限りなく近いと思いました。
もちろん、私が目にしたものでは無いのだけれど、ここにこうして在るという。まさに、「私の宝物」なのでした。
森の谷底を流れる大宜味村大保川の表情。水が呼び寄せ、形作る豊かな生態系。深い森に差し込む神々しい光、その自然と和合して生きる人々の姿。朽ちてゆく生き物の姿さえ、陶酔するような美しさです。
そして、この写真に残された景色は、もう存在しないという事実。命の循環、その流れの中に人間もいるはずなのだけれど。
今、大保川を囲む、この森はダムの底に沈んでいます。この写真はダムに沈む前、1997年から2007年にかけて撮影されたそうです。
「森がそのまま残されたなら、どれだけ大切なことを伝えてくれただろう。自然との間に作ってしまった境界を一枚一枚くぐり、奥をのぞかせてもらうこと。そこにある自分の根っこを確かめること。それは、行き過ぎてしまった生活の便利さを見つめなおし、豊かで確かな生き方を届けてくれる。そして僕たちがいなくなったあとも、その豊かさは受け継がれていく。」(今泉さんの後書き「風土が人をつくる」より抜粋)
【書評4】 富島美樹/旅館女将
衝撃でした。私が3年間の沖縄の生活の中で見ていた景色と違う世界が広がっていて、森も、動物も、生きている躍動感が伝わってきた。
【書評5】 萩原れいこ/写真家
島の精神性に深く向き合い、目をそらすことなく真っすぐ描ききったこの写真集を拝見して、深い感動を覚えました。ウガンバーリーの作品には鳥肌が立ち、島の神様がこの本に宿って、何かを伝えようとしている……そんな気がしました。
【書評6】 渡慶次美帆
森の深いところまで長い時間をかけて入り込み、混じり合うほど近くで撮影した写真は、ずっしりと重みを感じる印象でした。
【書評7】 石井裕一/出版人
同じ山に何度もなんども登っていると、その山から見える風景だけでなく、山に見えてくる事柄が次第に増えていく。一度だけの登山では山道脇の珍しい高山植物、途中の山道から見える絵はがきのような山の姿や、頂上からの展望が印象に残ることだろう。ところで同じ山道をほぼ毎日、登下降していると、まったく目にも留まらなかった小さな草木、キノコや苔、昆虫、動物の糞とその気配、そして岩石や気流の流れ、空気の匂いに気がついていく。何度も見つづけること、観察することで、この世界が複数の微細な連なりによって構成され常に動いていることがわかってくる。そしてわかればわかるほど、人はその世界から切り離されていることを強く感じる。
同じ山を何度も登るように、写真家は沖縄・やんばるの若夏(うりずん)の鬱蒼とした森とその川へと十年の歳月を費やして何度もなんども通いつめ、そこで半ば暮らしながら、無数の命と水の染みわたる微細な宇宙を見いだしていく。同じ視点で森に囲まれた集落の人々の生活と祭りを記録し、森にまつわる人々の言い伝えや昔話とともに、森の宇宙に重ねられていった。そうした経験と記録は長い時を経て一つの書物として構想され、さらに十年という歳月ののちに結実する。単なる森と水の写真を集めた写真集ではない。沖縄の森と水と人を繋いできた神話的宇宙観とそのイマージュを写真と言葉によって伝えようという大著である。
表紙の写真は「美しいしずくに飛び込んでいのちを落としたマルトビムシ」とある。写真家もまたこのマルトビムシのように美しいしずくである森に飛び込んでしまった。そしていのちを落として新たな命を授かり、新たな目を得た。マルトビムシを内包した新たなしずくはまるで何かの目の形に見える。その新しい目をもって自然を見、人を見る。写真を撮る。
その写真を見れば最初は当惑するような奇妙な感覚に襲われる。私が見ているのではなく、自然の側から見られているのではないか? と。何度も写真を見直すうちにそう思えてきた。人が森と水を覗き込んでいるのではなく、その逆、自然が私を見ているという「深淵」の写真なのだ。
「怪物と闘う者は、闘いながら自分が怪物になってしまわないようにするがよい。長いあいだ深淵を覗きこんでいると、深淵もまた君を覗きこむのだ」(『善悪の彼岸』より。F・ニーチェ著、中山元訳)
写真家はニーチェの言う怪物になってしまったのだろうか。違う。ここで言う怪物とは、神と切り離された人々の間の憎しみと争いのなかで己を含めた生の世界を破壊していく存在、その魂は虚無という深淵に飲み込まれている。写真家は自然保護の立場からそうした人の思惑による怪物的世界と長い間、闘ったはずだが怪物にはならなかった。森の目を得たからだ。
写真家は十年、森と水と人を見つめ続け、見つめられ続けた。そして森と川は2007年にダム底に沈む。写真集の森と水はもはや現実には存在しないが、写真という回路を通じて深淵から人間をじっと見つめている。それは告発ではなく、人が自然をじっと観察するように、自然が人をじっと観察しているかのようだ。地元の人々とて森と川をダム底には沈めたくはない、その思いは写真集の最後にはっきりと示されている。それでも人々を取り巻く怪物的社会の業により森と水は虚無の深淵に飲み込まれた。その悔恨や逡巡もまた写真に表れている。
写真集の最後には昔の沖縄に存在した神人(はみんちゅ)の役割について書かれている。「村人として暮らしながら豊作豊漁を願う折などには、自然と人々、今生と後生とをつなぐ役割」、それは今、今泉真也という写真家が担っている。過去と同様に、現在、そして千年先の未来、森と人が再び繋がり、祝うことができるよう、森と人を写真で繋ぐ役割。人間という虚無の深淵に捕らわれた怪物と森を再度、繋ぐ役割を単眼で担う。見る者の特権を森と水に沈めた単眼の神人は、これからも写真という魔術によって複数の視線に見られるという経験をもたらすだろう。
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